天地無用シリーズから物語を腑分けするNo2

日常性の視点で考える

とくめー氏の発言から引きます。

2008-04-29 - とくめー雑記(ハーレム万歳)
たとえば、横島・美神が強いのは、どんなにシリアスな場でもその「日常性」を忘れず己の流儀を貫けるから。だからあの二人には世界が味方する。『ハルヒ』世界におけるキョン君の特権的な地位も、その「日常性」に裏付けられたものでしょう。

この発言がほぼ全ての物語の基本骨格であることは今更強調するまでもないでしょう。

  1. 主人公は日常を生きている。
  2. 何らかの事件をきっかけに非日常に関与する。
  3. 登場人物が協力し事件に立ち向かう。このとき日常を回復しようとする意志が強い力となる。
  4. 事件を解決して日常に戻ってくる。

この通り。
指輪物語を例に取れば、1)フロドはホビット庄で平和な生活をしている。2)サウロンの覚醒が原因で平和に危機が訪れる。3)良き従者で友人のサムと共に一つの指輪を捨てるため滅びの山を目指す。彼らの力となるのはホビット庄と仲間への想いである。4)指輪の破壊に成功しホビット庄へ凱旋する。
このようにきれいに定型に当てはまっているのです。いかなる作品もこの構成から外れることは殆ど無く、例えばハリー・ポッターシリーズはヴォルデモートにからむ事件とその解決という全体の流れの中に、ハリーがマグルの世界から離れ魔法学校で事件を経験し解決した上で再びマグルの世界に戻るというサイクルが組み込まれているわけです。
ですが、ハーレム系作品が往々にしてダメクライマックスに陥ってしまう最大の理由が、実のところこの物語の基本骨格にあるのです。

ハーレム系作品の持つ弁慶の泣き所

なぜハーレム系作品がダメクライマックスに陥ってしまうか、その最大の理由とは、そもそも主人公にとってハーレム状態が「非日常」であるということなのです。
主人公がハーレム状態になるきっかけのパターンは無数にあります。
テレビから女の子が出てきたり、空から女の子が降ってきたり、彫刻が女の子に化けたり、遺跡から女の子が復活したり、ベランダに女の子が伸びていたり、女の子を召還したりされたり、女の子に命を狙われたり狙ったり、幼馴染みがいきなり引っ越してくるやその逆もあります。
ただ、どのようなパターンであれ、女の子がいきなり現れること自体が事件の始まりであり、その時点から物語が転がり始めるわけですが、同時にそれは何らかの形で「終わらなければならない」という宿命を背負うことにもなるわけです。
例えば「ゼロの使い魔」の平賀才人は物語の終末でハルキゲニアに残るか日本に帰るか選択せねばならず、「とある魔術の禁書目録」の上条当麻はインデックスか美琴かのどちらかを選ばねばならない。ハーレム系でなくても、「涼宮ハルヒシリーズ」はハルヒ達が高校を卒業するときSOS団をどうするか問われることになりますし、「けいおん!」では高校のサークル活動からいずれプロを目指すか否かを問われるでしょう。
お祭り(非日常)は永遠に続く事は無い、押井守が「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」で提示した答え、これがハーレム系作品の、そして全ての物語の持つ宿命なのです。