村上隆氏とギャラリーフェイクのアレ

とりあえず関連リンクはこの辺かな?と。
http://d.hatena.ne.jp/tyokorata/20100831/p2
村上隆批判と村上隆自身および東浩紀による反論など - Togetter
なぜ村上隆がヲタクに叩かれるのか - Togetter
村上隆に「ムカつく」のはなぜか - モジログ
村上隆をぶん殴りたい理由 - 脳髄にアイスピック
村上隆の芸術実践論 第1回 1/2 - ニコニコ動画
村上隆の芸術実践論 第2回 「観賞編」 1/2 - ニコニコ動画
村上隆の芸術実践論 第4回 「未来編」 1/2 - ニコニコ動画
ええと、読んで来ました、ブックオフで。
で思ったことは、仮にこの話で書かれていた主人公藤田玲司の台詞が作者細野不二彦の芸術に対する認識だとしたら、少なくとも「ギャラリーフェイク」などという芸術をテーマにしたマンガを描く資格は無い、ということでした。
まず一つ、主人公藤田は六園寺ハジメ村上隆氏をモデルにした作中の人物)に、「パクリ屋」「窃盗」と言うのですが、私に言わせれば「おいおい細野センセイよ、オマエの描いているマンガも、手塚治虫先生や水木しげる先生や、名の知られていない多くの漫画の先人達、アメコミやディズニーアニメから採られたマンガ表現に乗っかっているだろう。それを棚に上げてパクリだと?盗人猛々しいとはオマエのことだよ」と。
冷静になって考えてみれば分かります。
マンガ表現に使われるコマ割りの手法や集中線、吹き出しやキャラクターの表情のつけ方や漫符(汗の水玉などを指す)、これらは我々は「当たり前の漫画表現」と捉えますが、よくよく考えてみれば、人類の誕生と共にこれらの表現が共にあったわけではなく、誰かがこれらの表現法を発明し使い始めたわけです。あまりに当たり前に使われているから意識されていないだけで、マンガ家は全て無自覚な「パクリ屋」と言っても良い。
それなのに自分自身の「パクリ」を棚に上げて他人を「パクリ」と言うたあ、こりゃあ醜悪なカリカチュアでござい、と。


さて、本題はここからになるのですが、この話の藤田の台詞って典型的な「芸術オンチの日本人の勘違い芸術観」そのものなんですよ。
これは村上隆氏が上記のニコニコ動画で再三語っているのですが、芸術界において、美しいものを描く、綺麗なものを作るという価値観は、ピカソで息の根を止められたってことなんです。
もともとその萌芽はカメラの発明の頃からありました。
カメラの発明以前、芸術家…画家の主な仕事と言えば、貴族や富豪の肖像画、宗教画や聖人の彫像の作成でした。この時代、芸術家の能力とはまさに「上手く描く」であり、写実主義に代表されるように、いかに本物そっくりに描くかというのも重要な能力であったのです。
ですが、カメラが発達し良い写真が取れるようになると、必然的に写実的に描くことの価値が下落し始めます。これは当然であり、見たままを保存するならばカメラの方が余程そっくりそのままに撮れるからです。
カメラの発達は肖像画の意味を失わせることになり、上手く描くことの意味が揺らぐことになった結果、芸術とは何を表現するのか、絵画とは何を描くのかという問いが芸術家に課せられることになったのです。
ピカソは少年時代に写実描写を極めた人物であり*1、その後アフリカンアートとの邂逅を経てキュビズムに至りましたが、人をあそこまで幾何学的に解体してしまってもなお人に見えるという究極の形に行き着き、結果「描く」のではピカソを超えられないとなってしまったわけです。
また、村上隆氏は「ピカソは当時としては絵が上手かった」と言っており、同時に「今の美大生(美大予備校生)は皆絵が上手くなって、上手さのインフレが起きてしまった」とも述べています。*2つまり、ピカソの時代であればごく僅かな選ばれた人がたどり着けた上手さの高みに、適切な訓練を積むことで少なからぬ人がたどり着けるようになったということです。
更に19世紀末から20世紀のアートは「工業化」という怪物とも向き合わねばならなくなりました。それまで、芸術家や職人のみが作り出しえた美を工場が量産するようになった…、その結果「工業時代の美」としてアール・ヌーボーアール・デコバウハウスが生まれたのです。
マルセル・デュシャンが、1917年に既成の男性小便器を「泉」として世に訴え芸術界に衝撃を与えたのですが、まさにこれはそれまで「芸術(アート)」とされたものの概念を揺るがせた事件だったわけです。
現代アートが哲学的な問い、時事性、美術史といったもの…コンテキストをはらむようになったのは、この「泉」以降、「そもそもアートとは何か」を問わざるを得なくなったからでした。


それ以外の点については、まあ以下のWebページでほぼ完全に網羅されておりますが…。

http://kawamuramotonori.com/mt/2009/03/post-7.html
3."難解な言葉"→こざかしいお芸術は理解不能、難解にならざるをえない→よくない!というのもおかしい


これも「考える」ことを悪しとした考え方なんだろうけど。
作品と深く遊ぶためには考えることが必要だと思うので、もう価値基準が違うのね。
作品をみて、「お、コレはライトでポップな感じの味わいやすくてスナック感覚のいい作品だな」って言うのもあるし、「げ、コレはハードで重くてバックグラウンドが深そうだ、付き合うにはちょっと覚悟が必要だなゴクリ、でも楽しみでゾクゾクするぜ」ってのもどっちも在りますよね。

そして重要な指摘がこれ。

ギャラリーフェイクの現代美術(現代アート)についての評論に関して -- 美術・アート | 教えて!goo
こういうことを言いだすと日本では
基礎をどうこう言うのはばかげてる何も考えずに心から描けばいい。それが芸術だ。
とか。
技術論云々・教科書通りのものではつまらない。
なんて言って。
自身の技術の練磨をなまけるための方便としてこれを言うものが日本人にはやたら多いのには関心しません。

ついでに私がツイッターでつぶやいたこと。

ええな@ニャンガブ on Twitter: "ギャラリーフェイク22巻、村上隆氏を皮肉る話を読んだ。…さて、例えば千利休ゆかりの茶碗に飯を盛ってお茶づけを食べた、茶碗だろう?何が悪いと言われたら主人公藤田はどう答えるだろうか。利休ゆかりの茶碗というテキストを無くしてしまえばそれはただの古い茶碗に過ぎない、こういうことである。"
ギャラリーフェイク22巻、村上隆氏を皮肉る話を読んだ。…さて、例えば千利休ゆかりの茶碗に飯を盛ってお茶づけを食べた、茶碗だろう?何が悪いと言われたら主人公藤田はどう答えるだろうか。利休ゆかりの茶碗というテキストを無くしてしまえばそれはただの古い茶碗に過ぎない、こういうことである。


ええな@ニャンガブ on Twitter: "@tyokorata 作者細野氏は、いかなる芸術作品もテキストからは逃れられないという現実を理解してないということです。技巧的に同じレベルの絵でも、無名作家と有名作家ではどちらが高く売れるかという。利休ゆかりの茶碗とは、利休というテキスト…物語を買っているわけです。"
@tyokorata 作者細野氏は、いかなる芸術作品もテキストからは逃れられないという現実を理解してないということです。技巧的に同じレベルの絵でも、無名作家と有名作家ではどちらが高く売れるかという。利休ゆかりの茶碗とは、利休というテキスト…物語を買っているわけです。


ええな@ニャンガブ on Twitter: "@tyokorata 結局、自由な心に沸き起こった感動こそが本物、みたいな詰まらない話なんですよ。「上手い絵」で感動を与えるなんてピカソが引導を渡してしまったというのに。その割には「アニメについて知らなかったから芸術性に気付かなかった」なんてバカな台詞を藤田に言わせている。"
@tyokorata 結局、自由な心に沸き起こった感動こそが本物、みたいな詰まらない話なんですよ。「上手い絵」で感動を与えるなんてピカソが引導を渡してしまったというのに。その割には「アニメについて知らなかったから芸術性に気付かなかった」なんてバカな台詞を藤田に言わせている。


ええな@ニャンガブ on Twitter: "@tyokorata もっときちんと読み込んでくれば良かったのですがバカバカしくて嫌になりました。あの話は村上隆氏に対する批判になってないです、それ以前の問題。村上氏は上手く描ける人間(東京芸大日本画科卒)でありながら、「上手く描く」から離れざるを無かった理由を考えよ、と。"
@tyokorata もっときちんと読み込んでくれば良かったのですがバカバカしくて嫌になりました。あの話は村上隆氏に対する批判になってないです、それ以前の問題。村上氏は上手く描ける人間(東京芸大日本画科卒)でありながら、「上手く描く」から離れざるを無かった理由を考えよ、と。

つまりこういうことです。
骨董や書画の世界では「いわれ」や「作者」が重要になる…、これって結局物語消費だってことなんです。
「利休の茶碗」だって「千利休ゆかりの茶碗」だから高値が付く、興味の無い人にとってはただの古い茶碗に過ぎない。日本画なんてその際たるもので、国内でマーケットを構築し「五山」だのと言って高値をつけていた(バブル期には平山郁夫の絵が5億とか。これは、日本画がブラックマーケットや政治献金マネーロンダリング資金洗浄)に使われた為でもあります。)。村上氏はズバリ「海外マーケットじゃそんな高値はつかない」と言い切っています。以下は今から10数年前に語られた内容ですが、

http://www.netcity.or.jp/OTAKU/okada/library/books/otakusemi/No8.html
村上 それは難しいですね。というのは、日本画の場合は国内マーケットだけで成立するからコントロール可能なんですけど、コンテンポラリー・アートはワールドマーケットなのでジューイッシュが関わってきますから。ジューイッシュのディーラーがコントロールしている価格に対して日本のぽっと出のアーティスト自らがアプローチするのは難しいんです。

岡田 となると、いま平山郁夫日本画なんて三億から五億くらいするじゃないですか。これを世界に持っていったら、そんな値段では誰も買ってくれないと……。

村上 買いませんね。

岡田 ひえぇ〜。

村上 実は日本でも、いまじゃ平山先生の日本画を三億五億で売るのは難しいんですよ。アート市場については、戦後のどさくさに紛れてうまいものを作り上げたなと感心しているんですけどね。そのシステムに乗っかってクリスチャン・ラッセンなんかも値段を吊り上げることに成功したわけですから、あの手の連中は。

とりあえず長くなりましたがこんな感じで。

*1:私の好きな芸術家の一人はサルバドール・ダリですが、彼も大変な写実描写技術を持っていました。

*2:同時に、日本人は絵を描く素養に恵まれていて平均的に絵が上手く、欧米のアーティスト志望の人は絵を描く基礎訓練をろくに受けていない為、作り上げる作品については「下手くそ」と言い切っています。