再構成 〜 主人公であること、ヒーローであること 補論

ルール化された戦いとは何か 〜 主人公であること、ヒーローであること 補論 - WATERMANの外部記憶にて
非常に古典的な解釈になりますが、女性は守り育てる性であり、本能的に戦いを忌避すると言われます。女性がおしゃべり好きでコミュニケーション能力に長け、上下関係よりも並列的な関係を結ぶのも、子供を育てるために戦いを避けることが生存上有利であったためと言われます。
このような女性的視点から見たとき、夢やヒロイズム、尊厳、信念といったものに殉じ、それらを守るための戦いに命まで投じようとする男の様は、女性にとっては時に不可解なものに映るでしょう。
と書きました。
なお、この解釈は無理やりなものであることは重々承知の上ですが、性差による認識の違いというのは決して無視できるモノではないと私は思います。
更にここで重要なのは、現実の女性がそのような認識をするということではなく、物語上、女性が男性の戦いに対してそのような反応を示す描写が不自然か否かということなのですから、「女は男の戦いを理解出来ない生き物だ」という描写が不自然と取られなければ良いわけです。
さて、ジャンプ系バトルマンガの基本的なスタイルである「ジャンプ型試合主義」、…どれほど血みどろの戦いを繰り広げようと「試合」の延長の過ぎないというスタイルは、所詮「男の子のケンカ」「意地の張り合い」「シマ争い」に過ぎず、ヒロインから「バカじゃないの」と切り捨てられる運命であるということを述べました。
では、その間隙から脱出するには何が重要なのかと考えると、tyokorataさんの述べた通り「箱庭からの脱出」であると結論できるのです。それはつまり「外部性の獲得」であると言えます。

箱庭を超えて 〜 主人公であること、ヒーローであること 補論 - WATERMANの外部記憶

それは日本のある時代(今も含む)少年漫画も『奇子』と同じように、「枠」の中でしか戦っていなかったという仮定です。
 つまり、少年漫画の世界の中で戦い続ける彼らは、その闘いの舞台から一歩も外を出ていないということを言いたいのです。

外部性の獲得〜箱庭からの脱出〜

外部性の獲得とは何か、バトルマンガという視点に立てば、主人公達の戦いが主人公達だけの問題ではなくなることと言えるでしょう。
ジャンプ型試合主義によるバトルというのは、主人公達が勝っても負けても彼らの外にいる人にとってはどうでも良いのです。それはすなわち、サッカーや野球やゴルフやボクシングなどのスポーツで誰が勝とうと、興味のない人にとっては徹底して意味がないように。
そしてジャンプマンガのヒロイン達、主人公達の戦いを「理解できないわ」と言ってしまうヒロインの視線というのは外部の人の代表しているとも言える、…なぜならヒロインは主人公達の戦いに介入することができないのですから。
ですが、ドラゴンボールを例にこの作品が外部性を獲得する機会が無かったわけではないことを説明したいと思います。
ドラゴンボールは長い戦いの歴史の中で、最後の魔人ブウ戦に至ってようやく外部性を獲得することが、…地球に住む多くの人々が主人公達の戦いに関わりのない存在でないと描くことができました。
それは主人公達のような強力な力を持たぬミスターサタンが戦いのキーキャラとなることによって、…ですが私に言わせればこれは一種のデウス・エクス・マキナ、余り賢いやり方ではなかったと考えます。ドラゴンボールは少なくとも一度、その路線を変える機会があったのです。
物語としてのドラゴンボールがおかしくなった理由、それはドラゴンボールを使えば死した人を生き返らせることができるためでした。
死は取り返しがつかないものであるからこそ、苦難に際し命を惜しむか否かが、自己犠牲の苦悩が、失われた命への慟哭が、生き残った者の決意が意味を持つのです。
逆に、人が容易に生き返るのであれば、上記のようなものが一切無意味となってしまう、…ドラゴンボールが箱庭化してしまった理由、主人公の孫悟空が長い戦いを経ても全く成長しなかった理由がこのことからも分かるでしょう。
このことから考えると、ドラゴンボールが変わる機会とは、すなわちドラゴンボールが使えなくなる時であったと言えるのです。
ドラゴンボールが変わった可能性、それは初代ピッコロ大魔王によって神龍が殺された時でした。
これによりドラゴンボールによる復活は封じられ、以後悟空達は真に負けられない戦いに臨まなくてはならなくなります。ピッコロ大魔王の恐怖はまさに人類滅亡の恐怖であり、亀仙人の自己犠牲や圧倒的不利を覚悟した決死の天津飯、仲間を失った悟空の怒りと戦いぶりはドラゴンボール史上屈指の名勝負と言えるでしょう。
ですが結果として神様によって神龍は復活し、ドラゴンボールは再び箱庭となってしまったのです。
…それでは次回に。