箱庭を超えて 〜 主人公であること、ヒーローであること 補論

うわああっ、id:tyokorataさんに一歩早く触れられてしまったよ。tyokorataさんの論考の方が私の駄文より余程まとまっているのでもう全然書く事ないじゃない…。*1tyokorataさんの論考はとても楽しみなのでワクワクしてますが。

http://d.hatena.ne.jp/tyokorata/20100712/1278869140
それは日本のある時代(今も含む)少年漫画も『奇子』と同じように、「枠」の中でしか戦っていなかったという仮定です。
 つまり、少年漫画の世界の中で戦い続ける彼らは、その闘いの舞台から一歩も外を出ていないということを言いたいのです。
 こう言うと、反論が返ってくるかもしれませんから先に申し上げておきますと、『魁! 男塾』や『聖闘士星矢』などの漫画は、箱庭の世界の中を駆け抜けてきただけで、その実人間的成長を促す、考え方の違う他者や箱庭の外の社会と触れ合っていないということです。
 ということは、『奇子』が少女期から大人になるまでを過ごした地下の座敷牢の世界をもう少し広くしたのが『魁! 男塾』であり、『聖闘士星矢』であると。
 彼らは年長者である江田島平八や、位が高いとされるアテナに導かれて何の疑問も持つことなく、「イエ」の為に、己の命を投げ出して戦った存在だったというわけです。

確かに、「魁!男塾」は塾長江田島平八と天挑五輪大武會の主催者である藤堂兵衛の因縁の対決というのが基本的な軸になっていますし、「聖闘士星矢」は物語の大部を聖闘士同士の内輪揉め闘争で占められています。「キン肉マン」は物語の後半に至って、キン肉星の王位継承問題という形となりますし、「幽遊白書」は幽助の妖怪としての父親に当たる雷禅が出張ってくると。
…まあマップスも、物語の軸の一つが「幽霊船」の長女リプラドウとリプダイン、そしてリプミラの確執であるのですが。
さて、なぜこのような形になってしまうのかと考えた時、その原因の一つが、ジャンプ式路線変更の定型である、トーナメント・武闘会型展開…これを「ジャンプ型試合主義」とでも呼ぶことにしましょう。…の弊害であると私は思うのです。
と時間切れだ。再開、tyokorataさんの励ましも頂きましたし、気を取り直してねじ巻いていこう、と。
さて、ではキン肉マンの戦いの流れを軽く解体して見ましょう。序盤はまず超人オリンピックですね。vsロビンマスクやvsウォーズマンといった名勝負はこの時です。その後、いわゆる悪魔超人との対戦、ここではバッファローマンアシュラマンザ・サンシャイン、そして人間でありながら超人と偽って戦ったジェロニモが登場します。そして完璧(パーフェクト)超人との戦いを経て仲間達と友情を固め、いよいよ王位継承争奪戦に流れ込むのです。これも酷い話で、キン肉マンが生まれた時病院が火事になり、同時期に生まれた子供に取り違えがあった(かもしれない)、戦って勝ち残った王子候補が王位継承者だという、悪いのはキン肉マンじゃなくてお前ら親だろと。それなのにキン肉マンは渋々と親の言う通りに戦いに身を投じるのですね。
では、魁!男塾はどうかというと、実は殆どキン肉マンとフォーマットが同じなんですね。まず、剣桃太郎率いる男塾一号生の猛者が男塾の上級生やアメリ海兵隊?、他校生らを死にかけながらシバキ倒して実力を見せつけていると、塾長の江田島平八が、ワシがお前達猛者を集めたのは他でもない、裏切り者の藤堂兵衛をぶっ殺すためじゃあと炊きつけ死地に送り出すという話です。どう考えても江田島塾長の私怨としか思えんのですが。*2で、その後は延々似たような戦いを続けるだけなんで割愛。
聖闘士星矢はというと…なんかアテナ(城戸沙織)が狙われたり攫われたりするたびに星矢たち青銅聖闘士(ブロンズセイントと呼ぶ!)が姉貴(アテナ)を助けにヨソのシマにカチコミに行くという理解でそうずれてません。いや、一番盛り上がったのが聖域編(序盤から中盤)なんで後の話は余り覚えてないって人は多いと思います。*3
キン肉マンがやっていることはつまるところ悪行超人とのプロレスに過ぎませんし*4、男塾塾生は江田島平八の鉄砲玉、聖闘士星矢内ゲバとシマ争い…そういえば、tyokorataさんがドラゴンボール魔人ブウ編について次のように触れていましたね。

http://d.hatena.ne.jp/tyokorata/20100516/1273994267
それは暴力で何事も解決でき、相手も自分たちと同じで真っ向から戦いたいと思い込んでいた想像力の無さが原因だと言いきれます。
 「よ、よせっ ブウ!!! たのむ!!! それじゃ地球が…!! オレたちと戦うんだろっ!?」
 と理性を持っていない敵に哀願する様はまさに無力そのものでした。

ドラゴンボールも上記作品と全く同じ、魔人ブウに至るまで、ドラゴンボールに出てくる敵というのは、悟空たちの流儀(ルール)に付き合ってくれる物分りの良い奴らばかりだったわけです。
で、これらは実のところ、全てジャンプ型試合主義の前提がある…、言い方を変えるならば、「どれだけ死闘を演じようとそれはルール化された戦いでしかない」ということ。
「ルール化された戦い」…これこそがキーポイントです。

「ルール化された戦い」が示すもの

ジャンプマンガの戦士たち、彼らはジャンプ型試合主義によって描かれた試合のルールに従うばかりではありません。
tyokorataさんが指摘するように、家長的人物あるいは指導者的人物の指示に従って戦うだけの「物分りの良い子供たち」に過ぎないのです。
誰一人として、こんな馬鹿馬鹿しい戦いは沢山だと指導者に背を向ける者はいない…、いたとしてもドラゴンボール終盤の天津飯のように、もう二度と会うことはないだろうと物語から退場するしかないのです。
それはまるでサッカーや野球で審判に抗議した選手が退場を申し渡されるかのごとく。
ジャンプマンガの主人公たちが成長しない…特に内面の、精神的な成長を求められないのも当然というものです。
なぜなら成長してしまえば必然的に「ルール化された戦い」に疑問を抱くことになり、まずは指導者の打倒、そしてルールの枠組みを破壊することを求めるはずだからです。そうなればジャンプ型試合主義では扱えないキャラになってしまう。
ゆえに彼らは成長しない、してはならないのです。

*1:気負いが取れてホッとしていたりする。

*2:ひでー話、塾生死にまくってるんだぜ。

*3:蟹座のデスマスクが情けない人だったんで、当時蟹座ってだけで肩身狭かった人は少なくないと思います。

*4:というかプロレスがモチーフですよね。