箱庭から出ること、成長すること、大人になること vol.2

箱庭から出ること、成長すること、大人になること - WATERMANの外部記憶
さて、前回の続き考えてみようと思います。
前回はグラップラー刃牙を例に、刃牙はそもそも成長の可能性を持たないのではないか、彼が彼のパーソナリティに固執する限り成長できないのではないだろうか、そしてそれは彼ら、刃牙に限らず「箱庭」で戦い続ける者達に共通する、パーソナリティの柔軟性の無さによるのではないかと考えました。
ですが、ここで問い直されるべきことは、そもそも彼ら…、箱庭の中で戦い続ける者達にしかるべき条件、しかるべき機会が与えられたとしても、箱庭の外に出ることが可能なのだろうかということです。

箱庭の外に出た者、箱庭の中に留まる者

tyokorataさんはドラゴンボール孫悟空を分析し彼の持つパーソナリティの問題点について論じておりますが、私はその論を元に、ドラゴンボールという作品は少なくとも一度路線を変更する機会が、孫悟空が変わることのできる機会があったことを指摘しました。*1
しかしながら結果としては神龍は生き返り変わるべき機会は失われたわけですが、これはおそらく作者の鳥山明氏自身はそれ以降ドラゴンボールという作品をそれ程長く続けるつもりが無かったからだと思いますけれども、その結果最終的に孫悟空は次のような生命軽視の台詞を放つような、異常なパーソナリティを持つことになってしまったのです。

http://d.hatena.ne.jp/tyokorata/20100516
「だいじょうぶ 心配すんなって あいつはここまでこれやしねえ なんか作戦を考えるさ その間犠牲になった宇宙人には悪いんだが、あとでドラゴンボールで・・・な」

ですがこれについて私は次のように思うのです。
孫悟空がこのような台詞を放ってしまうパーソナリティを持つことになったのは、そもそも悟空というキャラクターが生命に対し重さを感じないパーソナリティを内部に有していたからではないか、ということです。
ここで思い至るのがヒーローの条件についての次の指摘です。

成長のドラマとヒーローの論理
 つまり、ヒーローが少年少女である場合でも、ヒーローの核となる信念についてはすでに完成形態になっていなければならない。
 ヒーローを描かせたら日本一、長谷川裕一作品を想起されたい。『マップス』のゲンにしろ、『轟世剣ダイソード』の王太にしろ、生れ落ちてのヒーローである。こうでなくては。最近では、和月伸宏の『武装錬金』のカズキなども、このナチュラルボーンヒーローの正統継承者である。

この指摘に沿って考えるならば、孫悟空は元から生命に対し重さを感じていなかったという可能性があるのです。
私は以前、主人公に対する反主人公、主人公に立ちはだかる敵は、主人公の写し絵であり別の可能性を選択した主人公であると指摘しました。
ゆえに、少なからぬ作品で敵役は主人公に近い人物、父や兄弟、あるいは友人が配されるのです。「北斗の拳」のラオウケンシロウの兄であり同時に兄弟子、「るろうに剣心」の志々雄は人切りとしての剣心の後輩ですし雪代縁は剣心の義弟です。「ダイの大冒険」のヒュンケルもダイと同じ師アバンに学んだ男であり、バランはダイの父親でした。
だからこそ、反主人公は時に主人公の側に戻ることができるのです。これは彼らが主人公と近いパーソナリティを有しており、何らかのきっかけによってそれが反転したために反主人公となったとも言えるからです。*2
以上のことから言えるのは、反主人公のパーソナリティは主人公も元来備えているべきものであるはずであるということ。
…ううむ、時間が無い。更に続くよ。
さて、反主人公は主人公と似通っている…という点について更に考えると、「ヒーローの核となる信念についてはすでに完成形態になっていなければならない。」理由が分かると思います。
つまり、主人公のパーソナリティがフラフラと揺れ動いてしまうようであれば反主人公のパーソナリティまでが曖昧になってしまうということであり、主人公に立ちはだかる者、悪をなす者としての反主人公は揺るがぬ意思のもと悪行を*3してもらわねば、読む人も安心して反主人公を憎むことができなくなってしまうということです。
…まだまだ続きます。

*1:初代ピッコロ大魔王によって神龍が殺された時です。これにより犠牲が許されない戦いを強いられることになるハズだからです。

*2:例えば「JOJOの奇妙な冒険」のDIO様は生命を踏みにじる吸血鬼ですが、言い方を変えるならば、生命の重さを感じないのであれば踏みにじったところで意味を持たないのです。「Fate/stay night」のセイバーが誇りと気品を備えるからこそ金ぴかの尊大さや傲慢さとの対比になりうるのです。

*3:悪行に限りませんが