正気の中の狂気、狂気の中の狂気(ヱヴァ:破ネタバレ、注意)

2009-06-30
稲葉振一郎先生のところに書き込んだコメントですが、なかなか力作なので転載。


(以下反転ですよ。ご注意)
私が1997年〜2004年頃のファンフィクション(FF)の流れを観察していた経験では、極としてエヴァがあり、もう一つの極として最大派閥のLeaf&Key(葉鍵)系があり、ミドル級のナデシコ系、マイナー級のサクラ大戦系があったように記憶しています。
ただ、2002年以降になると思いますが、ネットFF第一世代(第ゼロ世代はニフティなど)というべき層が、おそらくエヴァや葉鍵作品をリアルタイムで体験した大学学部生や院生が卒業・就職という形で積極的に創作に関れなくなることによって、急成長したTypeMoon(型月)系に飲み込まれる形で衰退していったのではないかと思います。


で、私は今回の「ヱヴァ:破」を見て、やはり原作者でしかできないことをやっているなあと思いました。
一つに、使徒に侵蝕された3号機がダミープラグシステムによって暴走した初号機にメチャクチャに破壊されるシーン、そして使徒に取り込まれたレイをシンジが助け出そうとするシーン、非常にヘタな「今日の日はさようなら」と「翼をください」が流れますよね。
おそらく前者は、アスカに後戻りできない形で何かが起こることの暗示(今日の日はさようなら、また会う日まで、ですが"今日"という日は二度と戻ってこない、アスカは戻れぬ明日へ向かうしかない)、そして後者は一見感動的なシーンでありながら実はサードインパクト寸前という皮肉を、不快感を掻き立てる歌で表現したんだと思うのです(翼をください、翼が欲しいと言いながら、エヴァが本当に翼を手に入れてしまったらサードインパクト)、つまりあの瞬間、The End of Evangelionの直前まで事態が進行していた(LCL化が表とするならば人類全滅が裏、まさに「始め(生)と終り(死)は同じところにある」)。
つまり、カヲル君はハッピーエンドに水を差したのではなく旧作と同じ終わりになるところを押し留めたわけです。
いや本当にすごい、ヱヴァに初めて触れる人にとってはカヲル君は敵に見えるでしょうが、実は人類を救っていたんだという二重構造。


私が思うのは、多くのFF作家が「その道は我々が10年前に通った道だ」と主張したとしても、FF作家はキャラクターの人格を変えてしまう(チルドレンが「繰り返し」を知っているなど)か、あるいはレールを敷きなおす(ミサトと同居しなかったら、カヲル君が最初から介入したら)ことでしか別の話を作れなかったのに対し、庵野監督はほとんど同じ構成で違う話を見せているという凄さ。
「序」でほんの少しだけシンジ君を外向的に描く(ゲンドウを睨むなど)ことで、「破」でシンジというキャラクターは変えずにストーリーの流れを変えてしまうという離れ業をやってのけているのが、やはり原作者は一枚上手だったと思う次第なのです。
シンジとレイは人格人物共に同一(同一人物の二面性)であるのに対し、アスカは人物こそ同じであるものの人格が若干変わっている(他者への拒絶・攻撃性が弱まり代わりに自我の鎧が厚い。アスカの内部に加持が不在のためか?)。登場キャラクターのうち、アスカだけがちょっと変わっているんですね。ゆえに名前を変えたのかな?と思ったりします。


私自身こうやって明文化して驚いたんですが、今作も実は狂気をはらんでいるのに一見まともに見えるので、ある人はまともさに失望しある人はまともさに喜ぶという状態ですね。

(ここからは追記)
旧作の鬼気迫る迫力は誰にも分かる狂気であったのに対し、今作はストーリーの裏に隠された狂気、それはいわば「人でなしの恋」*1、ではないでしょうかね。

*1:江戸川乱歩の底本は読んだことはありませんが、イマジン秘蹟2巻のモチーフ的な意味合いとして