恋愛ゲームが恋愛で無くなった時、恋愛ゲームの有りかたが変わった

一人のヒロインを選ぶ尊さからの逃避 - シロクマの屑籠

かつて「同級生」という恋愛アドベンチャーゲームの古典作品があった(1992年elf)。
これはまさに「恋愛ゲーム」であり、主人公は夏休みの前半を使って貯めたアルバイト料を軍資金に、夏休みの後半をヒロインとの恋愛を成功させるべく様々な行動を取るというゲームだった。
その行動も特別に何かをするということではなく、ヒロインの行動先をあたって親密度を高めたり、あるいは時おり起きるヒロインとのハプニングをうまく掴むといった、まさに「恋愛」をコミカルにシミュレートしたデザインがなされていた。

その後、1996年にLeafが「雫」を発表したことにより、恋愛アドベンチャーゲームビジュアルノベルという分野が開拓された。これはゲームからゲーム的な部分を排除し、若干の選択肢こそあるものの文章を読むことに特化した作品である。
だが、「雫」が変質させたのはもっと本質的な部分であった。
どういうことかというと、恋愛ゲームの中に「ヒロインの救済」がテーマとして組み込まれたということである(作品哲学としてみた場合、平井和正の「ボヘミアンガラス・ストリート」の方が早いとも言えるし、ボヘミアン〜は平井和正版「気まぐれオレンジロード」とも言える)。
「同級生」では、ヒロインはそれぞれ何らかの不満や問題を抱えてはいるものの、それがヒロイン自身の破滅に結びつくほどの重大問題やトラウマではなかった。
それが、「雫」「痕」の2作ではヒロインの破滅に繋がりかねないほどのトラウマや血の宿命としてストーリーに組み込まれた。

それが明らかに描かれたのは「ToHeart」の裏のメインヒロイン、マルチのストーリーである。
マルチは運用テストとして主人公の学校に1週間だけ派遣された試作メイドロボットであり、運用テストが終わればデータを抜かれ永久の眠りにつくという、いわば破滅が運命付けられたヒロインであった。
主人公に選ばれた時、マルチは再び生きた存在としてプレイヤーの前に現れることができる。だが、それは「彼女を選ばない」という結末を選んだ時、彼女は絶対に他のストーリーとは交差しないということでもある。
これは恋愛ゲームではなく読むことを主としたヴィジュアルノベルという形式が作られた時、アドベンチャーゲームというゲーム性の放棄に代わり読み応えのあるストーリーという要求の結果かもしれない。
だがその後、KeyのKanonAirといった作品においても、一人のヒロインとの恋愛成就はそのヒロインの救済だが、同時に他のヒロインを明けぬ苦しみの中に留めることになるという矛盾を抱え込んでいた。

その典型例がKanon/美坂栞のエピソードである。
まず、彼女のストーリーは川澄舞と"出会わなかった場合"にのみ継続される。川澄舞は主人公祐一に言った幼き日のウソに縛られ"魔物"と戦い続ける日々を送っているのだが、舞は祐一と再会できないことで、彼女はおそらく何らかの形で破滅する日まで戦い続けることになるだろう。
そして、栞のバッドエンドは新学期を祐一一人で迎えるという形で示される。彼女は難病をかかえており、バッドエンドは皮肉にも、彼女の命が新学期まで持たなかったことを示しているのだ(なおTVアニメ版においては時系列を組み替えることにより全てのヒロインのエピソードを通過できるようになっている)。
つまり彼女は、彼女以外の誰を選んだ場合、いずれにおいても死に向かって歩む運命をかかえており、それ以外の未来は存在しないのだ。

ハーレムエンドは、これらのように、行き過ぎた重いストーリーから逃れるために要求されたと考えられるのである。
一人の主人公が一人のヒロインのために他の全てのヒロインを犠牲にせねばならないのは、やはり重過ぎるのだ。