孤独な人間は他者を求めるのか

良く、孤独なら自らコミュニケーションを求めるはずだと言う人がいるんですよね。
ですが、それが出来るんなら孤独死なんてありえないよなあと思うわけでして…。
あの、秋葉原を血に染めた加藤智弘容疑者だって、孤独という酸に心を蝕まれた結果、社会に対する憎悪をあのような形でぶつける他なかったわけで。
大阪市此花区のパチンコ店放火殺人事件の高見素直容疑者も、周りからは真面目な良い人と言われながらパチンコ店だけが人との接点だったみたいですし、以前、どこかで読んだのですが、ある知的障害者がパチンコに入り浸る理由に、パチンコ店だけは自分を受け入れてくれるから、差別しないからという話がありました。この例は極端かもしれませんが、パチンコ店が彼と社会との接点になっているのでしょうね。


孤独は凶器となって人を殺します。
秋葉原の件も大阪市の件も、死ぬなら自殺しろって言う人もいるんですが、無差別殺人というのは自殺の反転なんですよ。
自分と他者はあわせ鏡、自分の存在を把握する為には他者が必要、1995年の新世紀エヴァンゲリオン以降、自分と他者との関係を描く作品群が数多く作られ、それらは「セカイ系」と呼ばれました。
セカイ系」、これって純文学でいう「私小説」がフィクションの形を借りて現代に蘇った物なのかも知れないです。
私はライトノベルは読むけれど通俗小説は読まないので、1990年代後半から続く自分と他者の関係を問い直すセカイ系と同様の流れが通俗小説にあったのかは知りません。
ただ、自分を殺すように他人を殺すのは十分起こりうるんです。そして殺す条件は他者でありさえすれば良い。彼は他者を殺すことで自分を排斥した社会に復讐したのです、社会を殺したのです。